ニライエステートの想い OUR STORY

  1. ニライエステートの想い

不動産業に携わるようになってから、20余年

社名の由来

「ミライエステート?」「ニコライエステート?」と聞き返されることがあります。そんな聞き慣れない社名の由来なのですが、それは家族で足繁く通った沖縄文化との出会いからでした。
「ニライカナイ:遥か遠い東の海の彼方にあるとされる他界。理想郷の伝承」という言い伝えがあります。
その神秘的な言葉に魅了され、「理想郷(ニライカナイ)を追い求め、不動産業(リアルエステート)を生業とし、歩み続けられるように」という想いを込めて「ニライエステート」と命名いたしました。

不動産業界との運命的出会い

不動産業を開業するに至るまでの話をしたいと思います。ある日「騙されたと思って不動産業界で働いてみないか?」と不動産業者の社長様よりお声掛け頂いたことを今でも思い出します。
幼少期から欧米車に興味があった私は、工業高校機械科を卒業後、名古屋に本社を置く技術系商社へ入社し、右も左も分からぬまま全国各地から集まった寮生300人との集団生活と会社の中で、人間的価値観の礎ができたような気がします。しかし3年足らずで退職し、建築業界で設計施工管理・営業を習得、そろそろ転職を考えていた時に興味も経験も無かった不動産業界へ足を踏み入れることになったわけです。未経験者の私に数多くの仕事を経験させて下さり、毎日が新鮮で楽しく今でもとても感謝しております。齢31の時。

本来ならばその恩義に報いて長く勤めたかったのですが、己の性分を鑑み入社4年にして退職、独立開業するに至ったわけです。齢35の時。
開業当時は仕事のない日々が続き、己を過信していたことに気付かされる毎日でした。ようやく軌道にも乗ってきた矢先、まさかの肺癌を患い療養生活を余儀なくされ毎日が辛く苦しい経験をすることになりました。齢40の時。
それから12年もの間、無我夢中に働き続けられたのは、仕事の楽しさを教えてくれた「不動産業界との運命的な出会い」があったからにほかならず、この場をお借りし全てのご縁に感謝申し上げたいと思います。齢52の時。

徳は才の主、才は徳の奴なり

私は、創業以来、独りで営むことを信念としておりまして、経営・営業・経理全般に至るまで全て独りで行って参りました。たまたま亡父は、建築鉄骨製作会社を営んでおりましたが、巨額な海外設備投資をした結果、軌道に乗らずして僅か数年で撤退せざるを得ない状況となりました。その時事業拡大することの怖さも経験し「自分で責任を負える範囲と規模で家族と取引先様にご迷惑を掛けないように事業したい」と肝に銘じたものでした。齢30の時。
しかし、独りで営むのも容易ではなく、例えれば「海面を独りでイカダ漕ぎしているみたいなもので、波風の影響も直接受けます。しかし意のままに漕ぎ進むことができるのも、魅力的です。」そして大手不動産会社のように、スタッフも資金も豊富で独自の売買支援システムを構築させ、無償サービスを提供するなど弊社には到底できません。だからこそ、大手不動産会社では叶えられない自身の人間味と信頼を於けるビジネスパートナーを頼りにご縁を重んじる気持ちが強くなりました。さまざまなことがAI化されている昨今、時代に逆行するようですが、対面でのご挨拶、人と人との繋がりなど、アナログなことをなにより大切にしております。

このような思想は、私の生い立ちにも起因しているのかもしれません。
私は、埼玉県志木市上宗岡で9代続く兼業農家の次男として生を受けました。亡父も母も埼玉県の生まれですが、亡曾祖父は神主でもあったことから、細田家では現在も神道を重んじています。種を蒔き、刈り取るまでじっと耐え凌ぐ。困っている人を見かけると見過ごせない。このような性分は、私のDNAにも組み込まれているような気がしています。どのような時代になっても、礼と仁義は重んじ大切にしなければと思います。

中国古典の「菜根譚(さいこんたん)」の一節に、このようなものがあります。

「徳は才の主、才は徳の奴なり」

徳は才能の主人であり、才能は徳の奴隷である。つまり、才能以上に人徳が大事だということ。私の座右の銘でもあります。礼も仁義も、決して目立つことはなく、コツコツと続けてこそ本当の意味での“尽くす”ことになるのだと思います。

「理想郷」を追い求めて

40歳の頃には、仕事もお休みさせていただかなければならない大病を患いました。このことが、働き方を大きく変えるきっかけとなりました。それまでは、精神的にも肉体的にもハードな仕事をしても平気だったのですが、さすがにこうした働き方や考え方は改めなければならないと思ったのです。自分の命に制限があると考えたとき、私がこれまで取り組んできた不動産業を先ずまとめ上げなければ、その先の理想郷を追い求めることができない、と。
以降、徐々に取扱いさせていただく物件を大きくしていき、お客様も個人の方から法人の方に少しずつシフトしていきました。病気になる少し前に携わった高齢者施設用地誘致の経験も、働き方を考えるきっかけになりました。この案件には足掛け2年ほど携わり、地主さんとの折衝から建物が竣工するまで見届けさせていただきました。また、亡祖母と亡父の相続コンサルティングに注力した経験も活きていると思います。それは非常に大変な手続きでしたが、税理士、弁護士、測量士そして金融機関と協議を重ね、すべてまとめ上げるまでに3年を要しています。相続等でお困りの方がどのような点で困っているのか?どのように解決していけばいいのか?を痛いほど体感しましたので、同様のことで困っている方の力になれると思っています。

これまで、老健施設、賃貸アパートそして戸建分譲用地の仕入れや誘致などに20余年携わってきたわけですが、その反動なのでしょうか…最近では、不動産とはまるで対照的なアンティーク雑貨に興味を持ち始めました。不動産と比にならない小さなものにも歴史的価値と魅力があり、古いものであるほど尊い。このことに新鮮さを覚えます。現在は、不動産業のかたわらで事業化も考えています。振り返れば、20歳のときに初めて買った車はフォルクスワーゲンのビートル(TYPEI 1967')。当時からしても、30年以上前の車です。この頃から、古き良きものを愛する気持ちを持っていたのでしょう。
話はそれましたが、30代、40代の頃は、別の仕事をやってみたいとは思いませんでした。しかし、今はワクワクすることがあり、それを好きと言える。この年になって、新たなことを始めようとしている。それは、不動産業を継続してこられたからであり、これまで私に関わってくださったすべての方のおかげです。ここ数年の働き方は少々変わりましたが、私の本質やポリシー、アイデンティティは何一つ変わっていません。今後も、これまでのご縁や感謝を忘れずに、私の「理想郷」を追い求めて参ります。

代表者プロフィール

埼玉県志木市上宗岡の地で10代(兄の代)続く兼業農家で亡父の代で初めて鉄骨建設業を営み、上宗岡生まれの父とさいたま市生まれの母の次男(男三兄弟)として生を受けます。
細田家(屋号:鶴巻)は、江戸時代からこの地に根を張ることになったのですが、亡父の話では「祖先はある家臣系の落ち武者であった」と聞いております。 代々の言い伝えとしては「端午の節句で鯉のぼりを掲げてはならない。なぜかというと男の子が生まれたと知られると敵に気付かれてしまうから」とも幼心に聞いた記憶があります。 そんな血筋を引いているからか?細田家の人達は「礼と仁義」を重んじる傾向があるようにも思えます。

人と不動産とのご縁に
感謝を。

ここ数年で働き方は少々変わりましたが、
私の本質やポリシー、アイデンティティは何一つ変わっていません。
これまでのご縁や感謝を忘れずに、これからも「理想郷」を追い求めて参ります。